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大阪地方裁判所 昭和63年(行ウ)5号 判決

原告(亡阿部豊訴訟承継人)

阿部孝子

阿部ひとみ

阿部孝司

右原告ら訴訟代理人弁護士

長岡麻寿恵

被告

東大阪労働基準監督署長西口保男

右指定代理人

山野義勝

小林省三郎

竹内健治

加藤久光

奥田勝儀

門口廣之

藤野純

坂田町子

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  被告が、昭和五七年一一月五日付で亡阿部豊に対してなした労働者災害補償保険法による休業補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

第二事案の概要及び争点

一  事案の概要(証拠番号を摘示した以外の事実は当事者間に争いがない。)

1  亡阿部豊(大正一五年一一月一六日生。―以下、亡豊という。)は、昭和五六年一一月当時、製菓機械の製造を業とする有限会社精魁堂(昭和四三年八月設立。従業員数社長を含めて三名―以下、訴外会社という。)に職長として勤務し、主に機械の制作を担当していたほか、製品の納入等の出張業務にも携わっていた(〈証拠略〉)。

2  亡豊は、昭和五六年一一月一八日、訴外会社の業務として同社の専務である山瀬仁郎(以下、訴外仁郎という。)と共に北海道旭川市に出張(以下、本件出張という。)した。

その行程の概略は以下のとおりである。

(1) 一一月一八日

午前中は、通常どおり勤務し、午後三時三〇分ころ、製品であるオーブン二台(重量は一台七〇〇kg)を積載した一トントラック(訴外仁郎が助手席に同乗)を運転して訴外会社を出発した。名神、北陸の各自動車道を経由して、午後七時ころ敦賀に到着し、同市内で夕食を取った後新日本海フェリーに乗船し、午後九時ころ敦賀港を出航した。

(2) 一一月一九日

終日フェリーに乗船し、船中で宿泊する。

(3) 一一月二〇日

午前六時ころ小樽港でフェリーから下船し、スノースパイクタイヤを装着した前記トラックで札幌を経由し(小樽―札幌間三六・四km)午後二時ころ旭川市所在の製品納入先である富貴堂株式会社に到着した(札幌―旭川間一三八km)。ここで昼食を取った後(なお、この間、同社の従業員が三〇分位をかけて前記積載商品をトラックから降ろした。)、同社の池田部長が運転する車に訴外仁郎と共に同乗して旭川市内にある得意先二軒を回りごく簡単なオーブンの修理を行い、午後五時ころ同市内のホテルに投宿した(〈証拠略〉)。

(4) 一一月二一日

午前一〇時ころから午後二時三〇分ころまでの間に、前日と同様池田部長の運転する車に訴外仁郎と同乗して得意先を二軒回り簡単な修理等を行い、午後五時三〇分ころ前日と同一のホテルに投宿した(〈証拠略〉)。

(5) 一一月二二日

午前九時ころ、前記トラックを運転して、往路と逆のコースで旭川市を出発した。途中札幌市内で二軒製品のアフターサービスを行い、午後六時ころまでに小樽市に到着し、同市内のグリーンホテルに投宿した。

夕食はホテル近くの小料理屋で、午後七時から八時ころまでの間に済ませ、午後九時ころには就寝した(〈証拠略〉)。

(6) 一一月二三日

午前九時、小樽港から新日本海フェリーで舞鶴に向かった。フェリー内では食事は普通に行い、テレビを見たり、ごろ寝をしたりして過ごした。午後六時ころ夕食をとり、午後九時ころ就寝した(〈証拠略〉)。

(7) 一一月二四日

午前三時一〇分ころ、睡眠中に体調不全(頭痛、嘔吐)を訴え途中下船し、午前一一時三〇分ころ、新潟大学医学部付属病院に入院し、紡錘状脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血(以下、本件疾病という。)と診断された(〈証拠略〉)。

3  亡豊は、本件疾病により昭和五六年一一月二四日から翌五七年六月一八日まで新潟大学医学部付属病院で、同日から同五八年一二月まで自宅近くの花園病院でそれぞれ入院治療を受けた後、自宅での療養を続けていたが、平成二年九月一六日死亡し、その妻及び子供である原告らが相続によりその権利を承継した(〈証拠略〉)。

4  亡豊は、前記療養中であった昭和五七年九月二日、本件疾病は「業務に起因することの明らかな疾病」に該当するとして、同年一月二六日から同年八月一八日までの間の労災保険法上の休業補償給付を請求したが、被告は、同年一一月五日付で不支給処分(以下、本件処分という。)をした。

亡豊は、本件処分に対し、同年一一月一五日審査請求をしたが同五九年六月一四日棄却され、同五九年八月九日になした再審査請求も同六二年一一月一一日棄却された。

二  争点(本件疾病の業務起因性)

1  原告ら

日常業務と異なり出張時であるが故の疲労の蓄積、寒さ、フェリーの揺れ等による外的ストレス、悪条件(悪天候、凍結道路)下のトラック運転による過度の肉体的、精神的負荷が相乗的に亡豊の急激な血圧昂進を招き、その結果、脳動脈瘤の病状を著しく進展させ、本件疾病を発症させた。

2  本件出張は苛酷な行程ではなく、トラック運転も特に過重ではないこと、亡豊は本件疾病の発症前日はフェリーに乗船し終日休息を取っていたこと、本件疾病は睡眠中に発症したことに照らすと、亡豊に本件疾病を発症させるに至る業務上の肉体的、精神的負荷があったとはいえない。本件疾病は、亡豊の動脈硬化性紡錘状脳動脈瘤が自然的増悪を辿る経過の中で、本件主張に偶々発症したものである。

第三争点に対する判断

一  日常業務について

訴外会社は、昭和五六年一一月当時、代表者である山瀬四郎、その息子で専務である訴外仁郎及び亡豊の三名で運営されていた。亡豊は、材料の発注から加工その製品化まですべての制作行程を一人で行っており、作業計画は単独で立案できる立場にあった。製品の納期についても余裕をみて受注していたので、それに追われるということはなく、所定労働時間は午前八時から午後五時まで(休憩一時間)、休日は日曜日と盆、正月のみであったが、残業はほとんどなく、亡豊は午前七時ころ自宅を出て、午後六時ころ帰宅する生活を送っており、家族に対し仕事での疲労感を訴える等のことはなかった。

なお、亡豊は、機械の制作責任者として製品の納入、据付け、修理等の業務も行っていた。このため、年に数回一週間程度の日程で鹿児島、北海道へ出張するほか、大阪近辺には日帰り又は宿泊付で出張することも稀ではなかった(〈証拠略〉)。

右で認定した亡豊の日常業務の実態からすると、本件出張以前の日常業務には、本件疾病の発生を促す要因は認められない。

二  本件出張業務について

原告らは、右出張中に加わったストレス等により亡豊の血圧が急激に昂進し、脳動脈瘤の増大及び破裂をもたらした旨を主張する。

1  そこで、まず本件出張業務の内容につき検討する。

(1) 本件出張の行程は第二の一2で認定したとおりである。

(2)〈1〉 トラック運転業務について

亡豊の走行距離及び走行時間は、昭和五六年一一月一八日が東大阪から敦賀まで約一七三kmを三時間三〇分、同月二〇日が小樽から札幌経由旭川まで約一七〇kmを八時間、同月二二日が二〇日とは逆の行程約一七〇kmを九時間である。

さらに、右各運転時の天候、道路状況及び休憩間隔等は、一一月二〇日、小樽―札幌間が天候は曇り、道路は凍結、札幌―旭川間が天候曇り、道路の凍結なし、休憩は二時間置き、一一月二二日、旭川―札幌間が天候午前中晴れ、午後は粉雪混じりで視界不良、積雪有り、休憩一回、札幌―小樽間が積雪有り休憩一回である。全行程中で最も運転に難渋したのは、注文品であるオーブンを積んでいたこともあって往路の小樽―札幌間であった。

なお、北海道に到着して以降はトラックのタイヤはスノースパイクタイヤであったが、タイヤ用のチェーンを装着したことはなく、これを装備していたか否かは不明である。(〈証拠略〉)。

〈2〉 その他の業務について

亡豊は、本件出張の主目的である株式会社富貴堂にオーブン二台を納入したほか、旭川市内で四軒、札幌市内で二軒の得意先を回り納入製品のアフターサービス等を行った。右業務は、いずれも順調に行われ、トラブルはなかった(〈証拠略〉)。

〈3〉 出張中の宿泊環境等について

亡豊は、過去冬季も含めて四回の北海道出張の経験があり、その際の行程、宿泊先はほぼ同じであった。

帰路のフェリー(一一月二三日乗船)は、天候が悪く船が小さかったこともあってよく揺れた。なお、船室内の温度は通常二五℃くらいである(〈証拠略〉)。

(3) (1)及び(2)から判断すると、本件出張中においては運転業務を除いては日常業務と比較して〔重い業務〕があったとは認められない。また、運転業務についても、天候、道路状況に対する習熟度及び往路は一・四トンもの製品を積んで運行していたこと等からすると、それが精神的、肉体的に疲労を伴うものであったことは否定できないが、運転は概略昼間になされていること、走行距離と走行時間から考えてかなりゆとりをもった運転であること、日数的に連続した運転は行われていないことを併せ考えると、日常業務と対比して質的差異をもたらすほど過重な業務であったと認めるのは困難である。さらに、帰路のフェリー内を別にすれば、日程的にも宿泊環境等についても疲労の回復を妨げるような外的要因があったとは認められない。

2  次に、原告らが主張する本件疾病の発生機序につき検討する。

(1) 本件疾病は、前記認定のとおり紡錘状脳動脈瘤破裂によるのであり、嚢状脳動脈瘤破裂によるものではない。嚢状脳動脈瘤は先天性中膜形成不全、欠損に由来し、多くの場合破裂に至るが、紡錘状脳動脈瘤は動脈硬化症が原因であり、殆ど破裂しない(〈証拠略〉)。嚢状脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血と紡錘状脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血とは外科的治療方法を異にし(〈証拠略〉)、このことは両者の発生機序が異なることを示唆する(〈証拠略〉)。

(2) 医師田尻俊一郎作成の意見書(〈証拠略〉)及び同医師の証言は、嚢状脳動脈瘤の発症から増大、破綻に至る病理過程を説明し、同人作成の補充意見書(〈証拠略〉)は、紡錘状脳動脈瘤のそれも同一であるというが、右事実、(証拠略)に照らし、疑問を持たざるを得ない。そして、他に紡錘状脳動脈瘤の増大、破綻に至る病理過程を明確にする証拠はない。したがって、本件疾病が嚢状脳動脈瘤破裂によることを前提として同医師の見解を基に本件疾病の発生機序を肯定することはできない。

3  1及び2と新潟大学医学部付属病院の担当医師もまた本件疾病の発生には精神的、肉体的因子の関与も否定できないが明確な因果関係はないとしている(〈証拠略〉)ことを併せ考えれば、亡豊の本件出張中の過重な業務が同人に血圧の急激な上昇をもたらし、その結果、同人の紡錘状脳動脈瘤の破裂を招来したと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

三  以上によれば、亡豊の業務と本件疾病の発生との間に相当因果関係を認めるのは困難であるから、本件疾病は業務に起因することが明らかな疾病とはいえない。

したがって、本件処分の取消を求める原告らの請求は理由がない。

(裁判長裁判官 蒲原範明 裁判官 野々上友之 裁判官 長谷部幸弥)

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